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会議って、だいじなんだと思うよ

例えば 〇会議(もしくは打ち合わせ)で確認されたことAがある 〇会議終了後に、いくつかの出来事があり、確認されたAはBに変更される 〇そこで、議事録に確認事項はBとして記載される 〇会議参加者にはAからBに変更された経緯は共有はされない これは、色々な取り組みをしていると、悪意なくたまに生じる現象だろう。 この現象が起きる要因は 〇会議の主催者が、会議での確認事項が重要だと考えていない場合 〇AからBに変更する経緯が、会議参加者全員に共有できない特別な事情がある(この場合、経緯は共有されなくても、変更があったことは共有できるはずなのだが、状況によってはAがたったことさえ抹消してしまうことがある)場合 〇議事録の取り方が不十分で、Aが確認されたことが曖昧なまま、会議後にAからBへの変更がされてる場合 この現象のメリットは 〇AからBへの変更に関わった人の心理的ストレスは少なくなる この現象のデメリットは 〇会議参加者の会議に対しての不信感が生じる 〇会議運営者の会議に対しての重要視が持てなくなる 〇会議が形骸して、意見を共有する場としての機能のみになり、判断決定機能を失う 会議での決定を会議外で変更するなんて、普通にありすぎて、感覚がマヒしている人もいると思うが、基本的に、会議外での変更は、会議に報告されるのがルールだろう。 それができないのは、基本的に仕事ができないってことだと僕は考えている。 これは、会議外で会議での決定判断を覆してはいけないって話ではない。 覆すのであれば、覆したことが共有される必要があるって話だ。

知的障害・街・歩く・ガイドヘルパー

もともと、散歩?街を歩くのは好きで、一人で色んなとこを用もなくフラフラしてたんだけど、施設のシゴトをやめて(施設のシゴトをしている時も、やたらと利用者と用もなく街に出てはいたが)、ガイドヘルパーやるようになってから、さらに好きになったと思う。 昔、東武東上線NPOネットワークってとこの人とコムケアサロンで話をする機会があった時に「知的障害のある人のケアのシゴトをしている人は、自分では気がついていないけど、多くの人ができない知的障害のある人とのコミュニケーションスキルを蓄積している大切な存在なんですよ」って話をしてもらったことがある。 そして、いまでは、これまで知的障害のある人と接してきた経験のなかった人たちが、ガイドヘルパーとして、街の中で、リアルにコミュニケーションスキルを積み重ね始めている。 それは、閉ざされた施設の中で、障害者・支援者しかいない特殊な環境の中でのコミュニケーションではなく、街の中で、知的障害のある人、支援者、街の人たちって状況の中で。 まだ、小さな広がりで、始まったばかりなんだけど、新しい材料が街を少しづつ変えていくんだろうなって思っている。 知的障害のある人のガイドをシゴトに出来て良かったなあ(^o^) #ガイドヘルパーから始めよう

本人の気持ち

状況の認識や先の見通しの難しい知的障害者の生活に関わる中で、『本人の気持ち』を知りたいと言いながら、体験を増やし、選択肢を増やす取り組みに時間を費やさず、材料のない中で『本人は変化を望んでいないのではないか?』と堂々巡りに時間を費やさせることは。 有限である時間を奪うにも等しい事だろう。 そして、変化は、望むものにも、望まぬものにも、訪れる。 積極的に変化を迎え撃ち、エンパワーメントの機会とするのか、パワーレスな状況で圧倒的な変化に飲み込まれていくのか。

支援が必要な高齢者は加齢による障がい者なんだと思うよ

介護保険と障害福祉サービスの統合に向けて、着々と国は歩みを進め、障がい者団体は「介護保険」とは一緒になれない、なったらこれまで獲得してきた生活が崩壊すると反対を続けている。それはそうだろう。 僕も介護保険との統合は反対だ。 ってより、支援や介護が必要な高齢者は「加齢による障がい者」なんだろうと考えている。その機能障害の有り様は、高齢者はすべて同じと言い難いものであるから、個々の機能障害に対して社会=環境が整備されていく必要がある。 介護保険が加齢による障害に対応できていないと見ている。 だから、介護保険を解体して、障害福祉サービスに統合していく必要があるのではないだろうか? それを支える財政は?って必ず言う人がいるが、すべての人が人として生きていくことに公的な予算を再優先で配分すれば良いだけ話だ。 その残りを他の施策に回せばいいだろう。人が人として生きていくことを支える以上に重要な施策はないと僕は考えている。 介護保険を解体して障害福祉サービスに統合し、加齢による障がい者の生活も他の障がい者と同じように支えられていく必要がある。

障害のある子どもと支援の専門性と

障害のある子どもに関わる支援者で、上質な専門性を積み重ねているのはガイドヘルパーだろう。 学校やデイサービスのスタッフの多くは、上手くやれるように「決められた枠とルール」の中で、障害のある子どもと関わるプロレス的な支援を日々繰り返し、障害のある子どもと教員、支援者しかいない空間で、その子どもの「障害」と向き合い、自分達は「障害のある子ども」の専門家だと勘違いを積み重ねている。 酷い場合になると、子どもの可能性を伸ばすと称して、自分たちが勝手に描いた「成長する子ども像」に、子どもたちを集団で誘導し、その流れに乗らない(乗れない)子どもを「課題のある子ども」とし、頭のよさそうな善意の人の顔で「障がい児への対応は難しい、専門性が必要だ」と言ってくれる(-_-;) 専門性とはなんだろうか? ここでは「 特定の領域に関する高度な知識と経験のこと」としておこう。 「特定の領域=障害のある子ども」に関する高度な知識と経験となるのだろう。 それは障がいのある子どもしかいない集団の中での「障害」に対しての高度な知識と、障害のある子どもしかいない集団での経験を指すのだろうか? それは、障害のある子どもは生涯を「障害のある人」と支援者の集団の中で過ごすことを前提にした専門スキルなんだと僕は考えている。 「やったこともないのに、言いたいこと言ってんなよ!」って言う人もいるだろう。 僕は20代30代を障害のある人たちの通所施設、放課後活動施設に費やしてきた結果として言っている。 放課後活動施設に関しては、自身で立ち上げ、責任者として運営をしていた。 言い出すとキリがないのだが、プロレス的支援の話はこの辺にしておき、冒頭で書いた、ガイドヘルパーが有する「上質な専門性」とはなんだろうか? 「障害のある子どもが地域の中で過ごす為の個別支援」に関する高度な知識と経験だと僕は考えている。 ガイドヘルプの現場ではそれが積み重ねらてきている。 それも「決められた枠とルール」の支配する場(施設)ではなく、子どもの生活の中で活きた知識と現実的な経験を積み重ねている、だから「上質」だと僕は言う。 しかし、現状では、障害のある子どもたちは安心と閉ざされた場でのスキルに支えられた施設に押し込められている。 そし

アイアムア・スタンダードだな、、、俺のコトだよ

根拠や経緯のないファッション右翼より、トラディショナルな左翼にシンパシーがある。 って、ふっと、思ったので書いてみる。 明治維新以降の国家を愛している人になんら共感を覚えず、そして、近年、そんな歴史的な経緯に関わりもなく、突然右翼になった人に興味も沸かず、、、しかし、身の回りの諸先輩はノンセクトラジカルを中心に、解放派だったり、第なんセクターだったりする輝かしい歴史の残り香みたいな人たちがいる。 僕は一切のセクトやファッション右派の文脈にはいないで、10代から生きてきている。 これは、1966年辺り生れの「普通」なんだと思う。 僕の判断基準は、10代の時に遭遇した、金曜11PMでの大橋巨泉だったり、小岩図書館の蔵書やレコードだったりするんだろう。また、20代にイエズス会のやってる大学系列の専門学校に行って、拍車はかかったのだろう。 さて、僕は、あまり頭が良くない。 たまに「いや、君は頭はいいんだ」って、ありがたいことを言ってくれるインテリもいるが、まあ、勘違い。 ある区議会議員が「中村君は、ああみえてインテリだから質が悪い」って言ってくれたらしいが、いや、、、インテリじゃないな。 話は変わって。 僕は多分、能力主義なんだと思う。 能力とはなんだろうか? 頭がいいこと? 身体が強いこと? 金を持っていること? それも、そうだろう。 しかし、それは原因でしかない。 結果、状況にイニシアチブをもち、自己達成感を味わえること、 イニシアチブはもてなくても、結果に対して納得できること。 僕らは「なに」を求めて生きているのだろう。 プロセスなのか?結果なのか? 結果が好きな人が増えたなって思う。 一昔前は、プロセスが好きな人が溢れていた。 自分にとって都合のイイ、結果を前提としたプロセスを求める人が沢山いた。 ウンザリだ。 最近は、自分にとって都合のイイ、プロセスを求めながら、結果を評価する人が増えた。 これもウンザリだ。 さて、僕はトラディショナルな左翼にシンパシーがあると書いたが、実際には50年生きてきて ・赤旗の勧誘を受けたのは1度しかない(T_T) ・創価学会の折伏を受けたのも1度しかない(T_T) えっ、学会って反対体制だから左翼でしょ? ちなみに、どう

障がい者通所施設と台風(^_^;)

台風や大雪に障がい者通所施設がする対応は大切だろう。 安全を第一としながら、利用者の安全を「だれが」確保していくのか? 通所施設は通常、利用者に対して、余暇やトレーニングを提供するが、同時に日中の社会活動の場であり、ケアを提供する場でもある。 台風や大雪の際に、安全な通所が保障できない時に、時間の短縮、変更や休みを判断しなくてはならない。 なんだが、同時に、利用者の多くは、常時ケアを必要としている、また、見守りを必要としている人たちだ。 施設が、自らの機能を安全のために縮小、停止させる場合に、では自分たちが日頃担っているその役割がどうなるのか?をイメージして対応を組み立てて欲しいと思う。 その際に、その代わりを担うのは、多くの場合、同居家族であり、グループホームスタッフ、居宅介護事業所スタッフだろう。 自然が相手の判断であるから、状況を見た柔軟な判断が必要になるが、同居家族が、仕事等を休み通所施設の代わりにケアや見守りを担うことが過度な負担となることが想定される場合など、どのような場合に施設はどう判断する、その場合はどうするのか?状況に対応できる居宅介護事業所はあるのか?等を事前に情報共有をしていくことが求められるだろう。 施設にとっての安全ではなく、利用者一人ひとりにとっての安全を視野に考えて欲しいと、、、台風のたびに感じる。

大田区立障がい者総合サポートセンター「さぽーとぴあ」二期工事

大田区立障がい者総合サポートセンターこと「さぽーとぴあ」が、医師会跡地を取得して二期工事に入るらしい。 僕は、そこに何が出来るかにあまり興味はない。 先日、さぽーとぴあで打ち合わせがあり「ここで避難訓練やらないのかな?」って話をした。 さぽーとぴあの避難経路は滑り台だ。 さぽーとぴあの前身にあたる身体障がい者B型センターである上池台障がい者福祉会館は狭い敷地ながら車いすのまま避難出来るスロープがある。 僕は大田区自立支援協議会に参加しているときに、さぽーとぴあ建設についての聴き取りをうけて、ハッキリと「避難経路は車いすで避難出来るスロープにする必要があります」と伝えている。 なぜなら、大田区の久が原福祉園以降の区立障がい者施設の避難経路は全て滑り台だ。 通所施設はまだ、いつ、だれが、何人いるのかを把握している。だから必要な人員を常時確保していれば避難出来るだろう。 しかし、大田区障害者総合サポートセンターさぽーとぴあは、障がい者に公開された施設で、いつ、だれが、なんにんいるかは把握して人員を配置することは不可能だ。だから自分で避難できる車椅子ユーザーは自分で移動できるスロープの設置が必要だからだ。 また、大田区内の特別養護老人ホームは滑り台だ。 先日の打ち合わせのあと、電動車椅子の参加者から二期工事をスロープにすればいいじゃんと言われた。 僕はその通りだと思っている。 そして、僕が外れてからの、自立支援協議会でさぽーとぴあの避難経路について、どのような議論がされたのだろう? 上記をフェイスブックに投稿し、幾つかのコメントも貰っている。 https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1206819609362833&id=100001044161382

僕の話 1

僕のお父さんは配管屋でした。 中村エンジュニアリングって会社をやってましま。 職人が対等に働ける、人から搾取されない会社が作りたいと言っていました。 って言うと、なんだか賢い人みたいですが、高卒で、飲む打つが大好きな普通の人だったと思います。 さて 僕のお祖父ちゃんは、元々は千葉の石川さんって家の子どもでした。 それがなぜか、東京の中村さんの家に養子に出されました。 東京の中村さんの家には子どもがいなかったから、貰われたらしいです。 でも、中村さんの子どもになったら、中村さんは子どもができて、石川さんからもらった子どもはいらなくなったそうです。 さて、千葉の石川さんは、そんなに豊かではなかったよので、あげた子どもが、いらないと言われても、帰ってきても困るな(-_-;)って感じだったそうです。 戦前の話し。 行く先がなくなった祖父は小岩で、配管屋を始めました。 配管屋はパイプを切る、繫ぐ、水を上から下に流すが出来れば出来るので、大工的な専門技術がなくても出来る仕事でした。 そして中村冷暖房って会社を作ります。 そして、浅草産まれの祖母と出会い結婚して、三女一男を授かります。 その一男が父です。そして終戦。 そして、戦後、父は頭が良くなかったので、城東一のバカ高校である関東一高に進学。 その頃に愚連隊になります。 よく解らないですが、存命の頃の父の話では「仲間は裏切るな」「仲間が死んだ(殺された)から愚連隊はやめた」と言っていました。 まあ、不良だったんでしょう。 そして母と出会います。 多分、ゴーゴー喫茶で。 母は、千葉は九十九里で産湯をつかった、元豪農の娘でした、、、 母は戦中に、体育が優れていて、盛農期は小学校、中学校に行けなかったのに、子どもの代表で戦中の日本軍の戦闘機の後部座席に乗せてもらったと、良く自慢していました。 戦後、多分、当時、もう貧農になった実家に居場所がなく、東京にでて来たのでしょう。 昼は女中、夜は主が経営するゴーゴー喫茶のお姉さんだったらしいです。そこで父と出会います。 今時で言えば、お坊っちゃんヤンキーとキャバ嬢の出会いなんでしょう、、、。 続きは、気が向いたら

スイカ甘いかしょっぱいか?

先日、三浦半島に知的障害当事者と車でドライブにいったついでに、スイカをお土産に買い、風雷の事務所に差し入れた、、、。 僕はスイカとメロンが苦手、ウリ独特の甘さが、味、香りと、どうも好きになれない。 自分の冷蔵庫に入っていたら閉めて開けない。 スイカを喰った後の女性とは、その人がどんなに魅惑的でもキスしない。 でも、ミーハーなので、雰囲気で他人には振る舞ったりする。 昔々、僕が二十二、三才の頃、知的障がい者が通う福祉作業所は、まだ訓練の残り香が強く、職員は福祉指導員、授産指導員と呼ばれ、利用者から、また職員同士も「◯◯先生」と呼ばれていた。 アルバイトの僕さえ利用者から「中村先生」と呼ばれたりしていた。 そんな夏の日の昼休みに、僕が作業所の事務室で記録を書いていると、ちえこさんが「中村先生!」ってデッカイ声で僕に声かけながら、スイカとお茶を持ってきてくれた。 ちえこさんは、僕より10歳くらい年上の女性で、軽度の知的障害があり、養護学校を卒業してから福祉作業所に通っている。 気さくで、明るく、感情の起伏は大きいが、少し少年ぽい優しい方でした。 職員の中では、かなり若手だった僕を気にきってくれていて、まだ作業所の勝手が分からず戸惑い気味の僕にあれやコレやと構ってくていた。 「ああ、ちえこさん、ありがと。でも、俺、スイカ嫌いだから、お茶だけ貰うね(^o^)」 ちえこさん、沈黙。 ちえこさん、顔を真っ赤にして、お茶とスイカののったお盆を机に、やや乱暴に置き 「中村先生のバカ!あたしがせっかく切ったのに!」 ちえこさん、泣きながら事務所から飛び出していく、、、(-_-;) 一瞬、事態が分からずに呆然とする僕、、、。 数分後、置かれたスイカを持ち、ちえこさんが駆け込んでいった食堂に向かう。 ちえこさんは、食堂のテーブルにうつ伏せて号泣中。 僕はスイカを持ち、隣に座る 「ちえこさん、スイカ、ありがとね」 って食べてみせるとちえこさんは 「あたしの切ったスイカ、美味しいでしょ」 「そうだね、美味しいね」 「でしょ、美味しいんだよ」とニコニコと。 あん時、どう接するのが良かったか?なんてどうでも良く、夏にスイカを見ると思い出す話し。僕が知的障害のある人たちと過ごし始めた頃の話し。 まさか、その後、こんなに長くとは夢にも思ってなかった。

逃げろ!忘れるな、棚上げはアリアリだ♪

そっか 子どもの時に授業中に遊んでたから、いま勉強が必要なんだ 子どもの時に宿題をしなかったから、いま宿題が沢山あるんだ 子どもの時に努力しなかったから、いま努力してんだ 子どもの時に沢山、ふざけて、バカで、遊んで、生き延びたから、そんなんでも毎日が楽しいいんだ うまくやれば、死ぬまで逃げ切れるかもしれない ベイビー 逃げるんだぜ♪ 難問は棚上げだ 現実を歪めて嘘をついて、誤魔化すよりましだ かな?

Blogをサボっている、、、書き留めることを避けている、、、んだな(^_^;)

Twitter、Facebookにはポストするのに、Blogはスッカリおさぼりしている。 まあ、このBlogタイトル「疾風迅雷~忘れる前に書く」なのに、、、書かないで忘却の日々をおくっている。 Twitter、Facebookに垂れ流して、発言した気に自分をして、忘れていく。 まあ、Blogに書いたからって、覚えている訳ではないのだけれど(^_^;)。 さて、今日は、久しぶりに新宿に行ってきた。 20代前半は毎週のように行っていた街だが、、、25年くらいトンと縁がなくなっていた。 打ち合わせの為に行った新宿は、綺麗になったなあって感想。 街もだけで、歩いている人が小綺麗になった気がする。 本当は打ち合わせあとに、呑気に呑み歩きたかったが、夜に会議もあり、台風で大雨の気配もあり、打ち合わせが終わって、まっすぐ蒲田に戻ってしまった、、、もったいない(T_T) 夜は、大田障害者連絡会の運営会議に出席し、先日の成年後見制度についての振り返りや、総会に向けての意見だしをし、代表の山田さんと会議後に千鳥町に移動して呑み。 、、、日記か(-_-;)、、、眠ろう、、、

(仮称)大田区における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応要領(素案)への意見

大田区の対応要領のパブリックコメントに意見を書いたので、一応、ここに残しておきます。 (仮称)大田区における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応要領(素案)への意見 A、素案から要領策定にあたり 1,全体について、この素案はどのような経緯を経て、どの部局が責任を持ち作成したのかが区民にわかるよう解説をそえて欲しい。 2,地域の障害者団体等から事前にあげられた意見や大田区自立支援協議会であげられて意見なども参考資料としてそえて欲しい。 3,知的障害のある障害当事者へ、理解のし易い対話型で素案に対しての、説明会や意見聴取の場は持つ事が必要。 B、パブリックコメント以降について 1,この素案に寄せられた意見をだれがどのように対応要領策定に反映させていくのかを明確にしてほしい。 2,策定にあたり、障害当事者が参加した形での検討会の実施して欲しい。 3,障害当事者が検討に加わり、必要な配慮の中で対応要領の検討をおこなえるスケジュールで策定を進めて欲しい。 4,上記をふまえ、知的障害のある障害当事者が対応要領策定の検討への参加できる配慮して欲しい。 C、基本的な考え方として 職員の対応に対応に対しての要領であるので、職員の行動原理となる施策のあり方に言及する項目を設けて欲しい。 例えば【「大田区学童保育における要支援児受け入れに関する実施要領」の第2条(2)実施の施設において通所ができ、健常児とともに保育することが可能であること。】や教育委員会における就学相談の案内において目的を「障がいのあると思われるお子さんの相談に応じます。」「お子さんの障がいの種類や程度に応じて、一人ひとりの力をより伸ばす教育環境への就学や転学や通級等の相談に応じます。」としながら対象者を「大田区内に住む、小学校または中学校に就学するお子さんの保護者。」「現在、小学校・中学校に在籍しており、公立小・中・特別支援学校への転学及び通級等を希望するお子さんの保護者」とし、障がいのある子どもの就学相談=支援級、支援学校し、障がいのある子どもの通常級への就学や転学や通級等の相談が省かれている。 上記2例のような区の施策自体を障害当事者とともに点検、検証、是正していく仕組みを盛り込まずに、職員の対応態度のみを修正して