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なんで施設はダメなのか? 2017 その1

最近、ある大学で、障害福祉の現状と課題について話をする機会をいただいた。

僕は研究者でも、批評評論家でもなく、

ただ障害福祉サービスを実践してきているだけなので、

論述的な話も、体系的な話もできない、、、^^;



できるのは実践の中で感じ、
自分なりに考えて来たことだけなんだけど、

改めて、

それを振り返り、人に話す、良い機会でした。



そこで、話の中核になったのが


「なんで施設はダメなのか?」


って話。

これは、数年前に、TransitCafe☀ColorsのTalkingGigで、小幡くんと一緒にやった話の焼き直しでもある。


さて


なんで、、、、施設はダメなのか?


そもそも

施設ってなんだ?





特定のニーズをもつユーザーのニーズに応える場所や建築物と提供する為の仕組み

、、、、、、だとしよう


例えば


学校は、、、

教育ってニーズをもつ子どもに、教育を提供する建物と仕組み



デパートは、、、

買い物したいってニーズをもつ人に、商品を提供する建物と仕組み


研究所は、、、

研究をしたい人に、研究をできる設備等を提供する建物と仕組み


だとする


なぜ、建物に仕組みを組み込んでいく必要があるのか?


ニーズへの対応を集中させる為


なぜ、ニーズへの対応を集中させるのか?


効率化と高度化、そしてユーザーの利便性の確保だろう


効率化は解りやすい


ユーザーを集めて待たすことができれば、提供する人や仕組みを効率よく使える


高度化は少し解り難い

提供する人や仕組みは、集中して存在することで知識や経験を共有し、提供するものについて検証考察をおこない、より高度な知識やスキルを開発しやすくなる。


ユーザーの利便性はストレートだよね

そこに行けば、ニーズに応えて貰える


そう、ここまで書いていると、施設はダメではない


効率的で、

高度化が得られ、

利便性が高い

これが、施設がなく、すべて個別だと


非効率で、

高度化しなくて、

利便性が悪くなる、、、(^_^;)


では、なぜ、施設がダメって言うのか?


だれにとっての効率なのか?


集中するだけで高度化が得られるのか?


利便性を得る為に失うものはなんなのか?


って前提の中で、障害者施設の話をしてきた


この話の続きは、そう遠からず東京大田区にあるTransitCafe☀Colorsで展開しているTalkingGigでしたいって思います(^o^)


TransitCafe☀Colorsの情報はバリアフリー社会人サークルColorsのFacebookページで(^o^) https://www.facebook.com/BFC.Colors/


その2へつづくかなあ(^o^)






























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